私(法人代表)は、身体障害者の両親のもとで生まれ、育ちました。
父は筋ジストロフィーで、筋力が徐々に失われて、最後は自分の体さえも動かす力がなくなる不治の病でした。20歳のころ発病し、自殺未遂もしたようでした。
発病する前は、兄弟をバイクの後ろに乗せて、日南海岸をよく走っていたようです。
母は生まれながらの脳性小児麻痺で右手右足がまともに動きません。
私には「交通事故でこんなふうになった。」と説明していました。
脳性小児麻痺と知ったのは、自分で福祉施設を立ち上げて、母の障害者手帳を見たときでした。
障がい者の運動会でお互いが知り合い、結婚、そして私を出産しました。
周りからは
「障害者同士が結婚してどう生活するのか?」
「子供を産んでどう育てるのか?」
「生活費や子供の養育費はどうするのか?」
「そもそも仕事ができるのか?」
と反対されたようでした。
私が幼いころ、父は、まだ動くことができていました。
洋服の仕立てや裾上げなど、自分で仕事を取ってきて、自宅で働いていました。
自宅と言っても、昔ながらの市営住宅で、家賃は当時で3,000円程度、窓ガラスは薄いすりガラスで、もちろんお風呂は外にあり、五右衛門風呂でした。お風呂の周りはトタン板で囲ってあり、もちろんお風呂の屋根もトタン板でした。
五右衛門風呂ですから、お湯を沸かすのは、オガライトや薪でした。
立ったり座ったりすることのできない父が、物を持ち上げる力の無い父が、地面を這って薪やオガライトを移動し、地面に座ったまま、火をつけ、お風呂を沸かしていました。
母は、動くことは出来たので、旅館でお手伝いとして働いていました。日当が1日8時間で3,000円でした。今から25年ほど前までの事でしたから、バブルの頃の話です。
たぶん、世の中は「金余り」だったと思います。そのような世の中で、日当3000円を貰うという気持ちは・・・どんな気持ちだったのか?
考えただけでも悲しくなります。 悔しくなります。
母は、自転車で通勤していました。ただ右半身がうまく動かないので、自転車のバランスを崩すと、すぐ倒れていました。自転車で倒れると、体全体で地面に倒れ込むことになるので、道路横の側溝にスピードのついたまま落ちたり・・・
出勤途中とはいえ、まともな雇用契約は結べていないので、労災もありません。また、そういう法律の事を教える人も居なかったでしょう。
しかし、両親とも、ただ黙々と頑張っていたのではありません。普通の人と同じように、いろんな感情を持ち合わせていました。
夜になると、父は焼酎を飲んで、酔っ払い、いつも泣いていました。号泣していました。憂さ晴らしをしたくても、体が動きません。焼酎の入ったコップを持ち上げる事もできません。こたつの上のコップに自分の口を近づけて飲むしかありません。
母もストレスがたまり、家の中では文句しか言えません。外ではいつも文句を言われる立場ですから・・・・・・
そのような中で、私は五体満足に生まれてきました。
今でも、両親の、その光景を思い出すと、涙が出ます。悔し涙です。父も母も必死でした。
しかし、社会が相手にしてくれません。
お金が無いのです。健康が無いのです。
そして、理解者が居ないのです。
親族でさえ、「体が悪いんじゃから、じっとしとけ。なんもせんでよかとよ」と言っていたのを覚えています。
父は必死になって、言い返していました。「俺だってできる!」と・・・・
私が生まれたことによって「子育て」という役割を、神様が両親に与えたのだと思います。
そういった意味では、両親は人並みに、家族を持てて、子育てをして、子供を大学まで行かせたという立派な事を成し遂げたと思います。
しかしながら、何ら役割を持たせてもらえない、仕事もない、理解者も居ない障害者の方が圧倒的に多いのが現状です。
先進国なはずの日本で、民度が高いはずの日本で。。。
ですから、なんとかして「障害者のよき理解者」を増やしていきたいと考えます。
「働きたい」「役に立ちたい」「活躍したい」という、私の両親と同じ気持ちを持った障がい者の力になりたかったのです。
しかし、私一人の活動では、まだまだ不十分です。まだまだする事が沢山あります。
たくさんの方々のご理解が必要です。
生まれてからずっと、障がい者に育てられた私だけが知る、障がい者の悔しさ、悲しさを噛みしめて、地域から少しでも悲しい思いをしている人を減らしたいです。
そういう思いで、現在の活動を実践しています。